「散ると見たのは凡夫の眼 落ち葉は大地に還るなり」
不知詠人(よみびとしらず)
秋になると、境内にそびえたっている大銀杏は見事に紅葉して、きれいな姿を見せてくれます。晩秋から初冬になると、落葉します。夕日に照らされながら黄色い葉がひらひらと落ちるのはきれいですが、大変な量の落ち葉です。掃除をするのに時間も手間もかかり、私の眼には「葉っぱが散る」としか見えません。
銀杏の葉は太陽の光を浴びて光合成をし、木の成長に必要な養分を作り出しています。そしてその役目を終えると、木から離れ、地面に落ちていきます。やがて朽ちていき、養分となります。「自然」なことです。ほとけさまの智慧の眼では、それは「大地に帰る」と見えるのでしょう。落ち葉にとっては、大地は帰るべきところ(帰依処(きえしょ))なのです。
子供のころ、『人は死ねばゴミになる』というタイトルの本が話題になっていました。ゴミになるということは、帰るべきところがないということでしょう。考え方は人それぞれかもしれませんが、そのような人生を歩むのは、虚しさを覚えます。人間にも帰るべきところがあります。そういう世界を開いてくれるのがお念仏なのでしょう。
(12組託法寺 華藏閣 行文)
「答えのない人生に向き合う力を与えるのが宗教」
瓜生 崇(うりう たかし)
あなたの生年月日はいつですか。それは本当に確かですか。自分で知っているのですか。誰かに教えてもらったのですか。自分が生まれる前後のことを知っていますか。
自分の体験の記憶ですか。誰かに教えてもらったのですか。あなたに関するあなたの記憶はどこまでたどれますか。
あなたは人間ですか。隣の人はどうでしょう。どうすればあなたが人間であると、また隣の人が人間であると証明できるのでしょうか。いのちは誰のものでしょう。もしあなたのものだとすると、あなたが作ったのでしょうか。あなたが誰かからもらったのですか。もらう前は誰かのものだったのでしょう。もらうとか与えるとかそういうことが成り立つことなのでしょうか。
老いは人間の自信を奪い不安を増大させ、自分が生きていることに罪悪感さえ抱かしてしまう。人間を見る眼に何か大事な視点がわすられているように、人間の価値や尊さをどこに見ていかなければならないのでしょうか。
今この私に価値があるのでしょうか。私がこの私に生まれたということにどんな意味があるのでしょうか。生まれたのは何がうまれたのでしょうか。何が生きているのでしょうか。
youtube東本願寺真宗会館「いのちのまなざし」三池 眞弓氏より
ALS(筋委縮性側索硬化症)を発病してからさらに強く明確に思うようになったことがあります。それは、生きる意味とか意義とか生きる価値とかは、人の解釈の問題でしかないということです。そこに存在するという事実の前には、そんなことは小さなことだと思うのです。・・・・
作家の開高健が言っています。「事実は一つ、解釈は無限」と、こんな当たり前のことを忘れて、生きる意味とか、生きる価値とかばかり言ったり考えたりすることによって、あたかも自分の考えが正しいものなのだ、と思わないようにしたいと願っています。私の考え、それは無限の中の一つに過ぎません。
「障碍者の生きる意味」岡部 宏生氏
(『ノーマライゼーション 障害者の福祉』2017年1月号掲載)
「私たちはこの世を見るために聞くために生まれてきたのだとすれば、何かになれなくても私たちには生きる意味があるのよ」
映画『あん』 主演 樹木 希林
生きることの意味。死ぬことの意味、その生と死を一貫した道をこの仏様の願いの中に聞き開いていくというのが浄土真宗のご法義です。
Youtube 梯 實圓氏 仏を仏たらしめている本質「本願のこころ①」
なんで生きているんですか 今何を求めていますか
(9組西光寺 源 大寿)
「みんなになるな ひとりになれ」
映画『一人になる』より
ひとりぼっちより、みんなといる方がいい。友達は少ないより、多い方がいい。一人違った行動をする人は、みんなのことを考えていない自分勝手な人。私たちの常識では、「みんな」ということに重きを置いているように見えます。
仏教の言葉でも人間の姿を「群生」とか「群萌」と表わされているように、人間とは群れて生きる(みんなになる)ものとして表現されています。
「全体主義的な世界とは、(略)問いかけよりはむしろ答えの世界なのです。クエスチョンズの世界というよりは、アンサーズの世界なのです。(略)とにかく世界中の人々が、いまや理解するよりは判定することを望み、問うことより答えることを大切だとするように感じられます。」(作家:ミラン・クンデラ 『汝、起ちて更に衣服を整うべし』宮城 顗 より)
「みんな」という世界は「問い」ということが失われ、「答え」が大切にされる世界だと言われます。「答え」が見つかることはいいことのように思いますが、「問い」が失われ、その結果、「考える」ということが失われていくのではないでしょうか。
浄土真宗は「自覚の宗教」といわれます。教えに従って生きるのではなく、自身が生きる上において教えから自身が問われる。自覚の内容は私自身と私が作る世界が問われるということにおいて起こります。そのことは、間違いの無い歩みではなく、迷いながらも歩んでいくことができるということでしょう。その、迷いながらも歩んでいくことができることをある人は、「自分で考えることができる宗教」と表現されました。
「みんなになる」とは、状況に流されながら、全体の雰囲気を自分の考えだと思い込んで生きる姿です。「一人になる」とは、状況に流されながらも、流されていることに惑い悩むがゆえに、自分で考えながら行動する姿ではないでしょうか。そのような素敵な「一人」に出あえる教えが「浄土の真宗」として私たちにまで届いています。
(10組正覺寺 見義 智証)
「亡き人を案ずる私が 亡き人から案じられている」
作者不詳
私たちの本山、真宗本廟(東本願寺)へお参りされたことがありますか。正面の御影堂門から入ると右に「参拝接待所」という建物があります。そこでずっと掲示されているのが、この法語です。
私たちは「先立ってゆかれたあの人は、どこへ行ったのだろうか」と、亡き人を心配してしまうことがあります。けれども、実は私の方が逆に亡き人から心配されているのだ、というのです。
それは、亡き人から「命あるうちに、人生で本当に大切なことに出遇ってほしい。そして生まれてきて良かったと、一生を生ききってほしい」そう願われつづけている、ということではないでしょうか。この願いにうながされ、教えを聞いていく人生を歩む。それが、亡き人に対する本当の供養にもなるのだと思います。
※補足説明
この法語の作者については、曽我量深氏・廣瀬杲氏・和田稠氏など諸説が伝わっております。以前は、本山高廊下の掲示法語においてその作者名が記載されていたこともあるようです。
しかしその後検証がすすみ、現時点においては本山でも作者不詳とせざるを得ないとのことでした。どうぞご承知おきください。
(駐在教導 鷲尾 祐恵)
「辛いという字がある もう少しで幸せになれそうな字である」
星野 富弘(ほしの とみひろ)
詩人であり、画家でもある星野富弘さんの言葉です。中学校の教諭になるも、クラブ活動の指導中に頸髄を損傷し手足の自由を失った星野さん。病院に入院中に口に筆をくわえて文や絵を書き始めました。今では国内外で展覧会を開催し、各地で大きな感動を呼んでいます。
星野さん自身も辛い気持ちを抱えていた中で出てきた言葉なのかと想像すると希望を見出すことの素晴らしさを感じずにはいられません。不穏な社会情勢の中、多くの方が辛い気持ちを抱えて生きる日々に小さな光・希望になる言葉だと思い、この言葉を選びました。
普通の字より一生懸命に書いた字が合うと思い、6歳の娘に揮毫をお願いしました。
まだ漢字も習字も習っていない小学1年生です。娘は幸せの字を書く時に、辛いを指さして「さっき同じの書いたよ」と言いました。なるほど、辛と幸は本当によく似ているのだと、自分の人生の経験も思い返して、納得しました。
(10組浄光寺門徒 野崎 詩織)
「自分を尊重し縁ある他者を尊重して共に生きよ」
竹中 智秀(たけなか ちしゅう)
学生時代に習った言葉です。標語一つでも人それぞれ感じ方が違うと思います。
自分の尊重 他者の尊重
それぞれ意見が違う
共感し合う時もあれば、いがみ合う時もある
最後の共に生きよは、他者の繋がり・隣のひとを大切にしなさいと投げ掛けられている言葉だと感じました。
(11組無量寺 竹澤 祥瑞)