2021~22年法語

「他の過失は見やすく おのれのとがは見がたし」

お釈迦さま

この言葉は、私たちは例外なく自分の過ちに気づかずに生活してしまっているという事実を教えてくれます。

そしてお釈迦さまは、この言葉に続けて、「他人の過失に対しては細部まで暴き、非難し、世間に広くその罪を知らせようとする。しかし、自分の過失に対しては、どこまでも無かったかのように巧妙に隠し通そうとする。」(趣意)というような言葉を続けられます。

テレビの中で、世間で、まさにその言葉通りの現実が繰り広げられているのではないでしょうか?

さらにこの言葉は、「自分の過ちをしっかり見つめましょう」ということだけではなく、「他人も自分も過失がある」ということを示しています。普段私たちは、正しいのは他か自かという眼差しで見、考えています。そして、正しさがわからない中で自分を見つめると言っても、他の過失が見えれば、「あの人よりはまし」という思いがわいてきてしまうのです。その結果、自分はあの人よりは正しいと錯覚してしまう事を繰り返しているのではないでしょうか。

この法語は何が正しいかではなく、「どちらも過失がある」というということを教えてくれている言葉です。比べてどうかということではなく、どのような者も人間である限り、過失を抱えることは免れない。その現実をどう生きるのかということを問う言葉として聞こえてきます。どう生きてきたのか、どう生きていきたいのか、どう生きるのかを過ちから問う時が今なのではないでしょうか。

(10組 正覺寺 見義智証)


「人間にとって 本当に必要なものは そう多くはない」

中村 哲

新年届いた年賀状の中に親鸞聖人の言葉とあわせて何行かの文章が引用された一枚があった。その中にこの語句があり、がつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。

キリスト教徒である医師 中村 哲 氏は医療支援の為、イスラム圏砂漠の国アフガニスタンへ赴き、貧困、不作による飢餓にあえぐ人達に出会うものの、医療以前に衛生環境が整わねば守る命も守れぬ、救える命も救えぬと自らショベルカーを操り、30年近くかけて1600本の井戸を掘り、距離25キロにも及ぶ用水路を切り開いた。結果65万人の命を支える農地を耕し植樹を行い、森林を作ったが2019年暮れ、何者かの襲撃によりドライバー、護衛の5名とともに凶弾に倒れた。

平和には戦争以上の力がある、一隅を照らす、と訴えつづけた氏は強くも心温まる幾つもの言葉を発し、実際に行動した。その全ての源は、生涯をかけ自らを投じた世界で見つけた、人類や自然の道理に抗う者への警告、自らを投じた人達と自然に対する思い、そして人間が本来持つべき心の置き方、命への眼差しそのものだったのではないだろうか。

かつて私自身が聞いた言葉、阿弥陀如来の、誰をも、

えらばず、きらわず、見捨てず

と相通ずる人生を、真剣に歩む人がいたのである。

(12組 榮明寺 佐賀枝 立)


「阿弥陀仏は 名詞ではなく動詞です はたらきです」

坂東性純(しょうじゅん)

「西のかなたには極楽浄土があり、そこには阿弥陀さまがおられると聞く。けれど、そんなことはとても信じられん」

子どものころ、私はそう思っていました。今思えば仏さまのことを、会話したり握手したりできるような「実体」として捉えていたのだと思います。寺にはご本尊として仏像や絵像が安置されていますので、その外形にとらわれ、なんとなくそう思うようになっていたのでしょう。

ところが、この法語に出遇(であ)って自分が大きな勘違いをしていたことに気付かされました。日本語の文法という視点から考えると、この文は奇妙に思われるでしょう。「阿弥陀仏」はどう考えても名詞だからです。しかし、あえてこのように表現されることで私たちの思い込みをひっくり返してくださっている、強烈な言葉だと思います。

さて、それではどんな「はたらき」なのかというと、それはいつもお勤めしている和讃にありますように「法身(ほっしん)の光輪きわもなく 世(せ)の盲冥(もうみょう)をてらすなり」ということです。これが具体的に私にとってどういうことなのか?そういう問いを持って、毎日の生活をおくっています。

(駐在教導 鷲尾祐恵)


「感動と感謝を呼び覚ますすがたを不可思議という」

宮城 顗(しずか)

高校時代から何となく読み始め幾度となく読み返してきた『歎異抄』。なるほどという感はあったが、読み返す中に、宮城顗先生の『歎異抄講義』に出遇(であ)った。かつて、本山で開かれた「教学研修会」に参加した折、宮城先生からクリスチャンであったジャクリーンさんの来日話を聞かされた。修道院生活で『歎異抄』を読んで、「親鸞おじさま」に会いに来たとのことである。宗教とは、いかに地獄に堕ちないようにと学び、修行することが信仰と思われるが、第2章には「地獄一定(いちじょう)すみかぞかし」とあり、そういうところに「親鸞おじさま」は悠々と生きておられる。そのような親鸞聖人の教えに感動し、生涯をかけて聞くことに生きていかれる。

日ごろ、感動には無頓着な私であったが、宮城先生の『歎異抄講義』の「信心によって悲しみや苦しみが清められる」という言葉に出遇った。信ずることにおいて、悲しみや苦しみが消えるように思っていたのは私の心であり、その悲しさは愚痴(ぐち)となっていく。自分の悲しみを通して人間の悲しみに目覚める。学びもその1つである。自分だけが学んでいるように思っていたが、周囲を見渡すと私の学びを支えてくださった方々のおかげでこの言葉に出遇うことができた。まさに「感動と感謝」である。今まで上っ面の感動や感謝であった私が、このように感動し、感謝できるのは、私の能力ではない。支えてくださってある不可思議の用(はたら)きに他ならない。

(13組 勝蓮寺 河村智明)


「自分に先だって歩まれた人々の存在が、私の歩みを支え導いてくださる」

宮城 顗(しずか)

私たちがこの世の中を生きていくということは、なかなか大変なことです。自分の思い通りにならないことばかりで、悩み、惑い、苦しみながら日々を送っているのではないでしょうか。しかし、それは現代に限ったことではありません。私たちに先だって人生を歩まれた人々も同じ思いをされたことでしょう。その人々は、どのように生きていけばいいのかということを仏教に訪(たず)ねられ、人生という道を歩んでいかれました。

親鸞聖人が仰がれた七高僧のお一人である道綽(どうしゃく)禅師(ぜんじ)(562年~645年)は『安楽集(あんらくしゅう)』という書物に、「前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後(のち)に生まれん者(ひと)は前(さき)を訪(とぶら)え」とお書きになっています。私たちが歩むべき道は先に歩まれた方々が示してくださっています。歩むべき道がわからないならば、先だって歩まれた人々に自分が歩むべき道を訪ねていけばよいのです。

(12組 託法寺 華蔵閣行文)


「いのちの 娑婆(しゃば)にあらんかぎりは つみはつくるなり」

蓮如上人

お弟子の順誓(じゅんせい)が蓮如上人に次のようにお聞きした。「『一念の信心を起こしたところに罪はみな消えて正定聚(しょうじょうじゅ)の位(くらい)に定まる』と『御文(おふみ)』にお示し下されています。しかし、ただ今は、『命のある間罪はあるだろう』と仰せられました。これは、御文の教えとは異なるように思われますがいかがですか」。これに対し蓮如上人は、「『御文』に『一念の信心を起こしたところに罪はみな消える』とあるのは一念の信心によって往生が定まるときは、罪があっても何の支障にもならない。それゆえ、ないと同じことだという意味である。我々凡夫はこの世に生きている限り罪を作り続けるものなのだ。順誓は悟りを開いて罪というものはないのか。真宗の御聖教(おしょうぎょう)には、『一念の信心を起こしたところに罪は消滅する』と説かれており、『御文』にもその通りに書いたのである」とお答えになりました。そして「罪があるか無しかを問題にするのではなく、信心をいただいたかそうでないかを、繰り返し吟味することが良いのである。罪が消えて御たすけ下さるのであろうとも、罪が消えないで御たすけ下さるのであろうとも、それは阿弥陀様のお計らいなのであって、我々は計らうべきではない。ただ信心こそが重要なのだ」と繰り返し仰せられました。

(細川行信他 現代の聖典『蓮如上人御一代記聞書』より)

 

『正信偈』に「邪見(じゃけん)驕慢(きょうまん)の悪衆生、信楽(しんぎょう)することはなはだもって難(かた)し」とあります。わたしたちは、一日一日を過ごすとき、いつも正しい心をもつことより良くない心を抱き、時にはうらみ、ねたみ、むさぼりなどの妄想に囚われる場面が少なからずあります。そして、そのことに慣れてしまい、正面から向き合うということはないのです。少しは後ろめたい気持ちはあるかも知れませんが、深く反省し懺悔の気持ちを持つことまでには至りません。蓮如上人が順誓にいわれた「愚かなわたしたちは一生罪を作り続ける者なのだ。あなたは悟りを得て、もう罪を作るということはないのか」という言葉は、まさにわたしたちに投げかけられた問いかけの言葉でもあります。そのことに気づかせていただけるのは聴聞(ちょうもん)以外にはないでしょう。つねに教えを聞く場に身をおくことによって信心をいただけたとき、一生罪を作らざるを得ないわたしたちですが、大切な人生を力強くいきいきと生きていこうという明るい気持ちが湧いてくるのです。

(10組 蓮光寺門徒 金尾誠一)