2020年度法語

「知らないということよりも 知っているということが 人間をせばめるのです」 宮城 顗

「知っていること」とは「知識」ということですが、知識が豊富であるほど善いというのが今日を代表する考え方の一つではないでしょうか。今回の法語からは、そのような状況の中、却(かえ)って知識に囚(とら)われる人間の姿について示唆を受けます。

知識を拡大すれば見識が広がり、世の中を上手く生きられるようになるという考え方は、現代の常識かもしれませんが、はたしてそうでしょうか。

そもそも私たちが身につける知識というのは、往々にして利用価値があるものや、自分を肯定(こうてい)する耳心地の良いものですが、ときにそれは人を酔わせ、個人的満足に眠らせてしまいます。知識が悪さをするのではなく、私たちがそれを握りしめ、利用してしまうのです。したがって知識を増やした結果、頑(かたく)なさや傲慢(ごうまん)さが培(つちか)われるということも珍しい話ではありません。

豊富な知識が人間を自由に、豊かにさせるという考えは疑う余地のないように見えますが、反対に人間を不自由に、貧しくさせるということも忘れてはなりません。真宗の教えを聞く私たちも例外でなく、常にその危険と隣り合わせなのです。

(12組 大中臣冬樹)


「人に遇い 真実に値う 貴重な一生を頂いている」 宗 正元

NHKラジオに「子ども科学電話相談」という長寿番組がある。子どもたちの質問に各分野の専門家が答えるというものだ。その日の質問は「人はどうして“なぜ”を思うのですか」。

究極の質問だと驚いた回答者が応えたのは、「大人になるといろんなことが当たり前に思えてきて何故を考えなくなる。そして分かったものしか見えなくなるんだ」さらに「これからも、どうしてと気づくことを大切にしてください」と結んだ。

我々は、いつの間にか経験を重ねることで物事を自分の価値で判断していく。私は分かっているという思いは強固である。それでは分からないという自覚はどこから促されるのだろう。

たくさんの書物に尋ねても私の思いが覆されるのは容易ではない。それはやはり、道を尋ねてきた人に出遇い、語り継がれてきたことばに出遇うことではないだろうか。

ものしり顔の私に気づくとき、初めて「聞く」という世界が開かれていく。そして「聞く」ということには終わりはない。

(12組 大中臣千恵美)


「人生一生 酒一升 あるかと思えば もう空か」 作者不詳

表題の法語を 始めて 拝見した時に、なんて楽しく、可笑しく、又現実的な言葉かな!と感激いたしました。

お寺さんの会議などに 出席するようになってから約2年位経ちますがいろんな法話も聞き、又沢山の法語がある中で私には、一番印象に残っている言葉である。

覚えやすく、誰にでも、何処でも引用できる!

すべての人間が いずれ来る 人生の終わりを、一升瓶の酒で表現された この作者に出来ればお会いして、お話を聞きたいと思ったが、作者不詳と書いてあった。

非常に単純であるが、なかなか重みのあるこの言葉は、私にとっての日常である。

食卓の横にいつもある一升瓶の酒が、いつの間にか無くなっている。

無ければすぐに,買い足して補充していたが、不思議とこの言葉に出会ってからは、随分と丁寧に味わって飲んでいる。

すでに、75歳を過ぎた自分の人生を、1日、1日 チビリ チビリ味わって飲む酒と重ね合わせてしまっている。

一日の終わりに頂く一杯の酒が今まで以上に,味わい深いものになっているような気がして、この法語の有難みを感じている次第です。

(12組 山西弘)


「良いことを言うのは易しい 本当の事を言うのは難しい」 安田 理深

「本当の事」がわかるとそこから考えることができます。それは「偽(にせ)の事」や「仮(かり)の事」がはっきりするからです。逆に言えば、偽の事や仮の事をはっきりさせることが本当の事の働きなのでしょう。

「良い事」というのはその時は良い事と感じても、時間が経過したり、状況が変わるとそうではないことになってしまう事かもしれません。私自身、「良かれと思ってやったことが…」ということが何度もあります。

良かれという思いを日ごろの行動や判断の中心にしている私に、その危うさと暗さを教えてくれるのが本当の事なのでしょう。親鸞聖人は日ごろ語られた言葉で「私たちの日常は善し悪しを言い合い、本当の事がひとつもない。ただ念仏のみ本当の事である」とおっしゃっておられたようです。

「念仏のみ」とは、蓮如上人が言われる「お念仏を口に称えるということだけではなく、南無阿弥陀仏にまでなった願いを聞くことだ」とおっしゃることではないでしょうか。

 

この法語を目にしたとき、「私の日常(良い事)を問う仏さまの言葉(本当の事)を聞きなさい。」という言葉に私は聞こえてきました。

 

コロナウイルスへの不安が募る中、感染しないことを善しとしながら生活しています。そのことの重要さと同時に、感染された方やその家族の不安や痛みを想像する力が失われていないでしょうか。不安から、感染や発病された方に怒りや刺々しい言葉を向けていないでしょうか。感染者数が多い県から来られた方をどのような目で見ているでしょうか。感染した・していない、発病した・していない、富山県かその他の県かということを超えて、この状況を一緒に生きて乗り越えていく道を求めていきましょう。

(10組 見義智証)


「くらべず あせらず あきらめず」 竹中 智秀

この法語は仏さまのお心を表していると、ある先生から聞きました。このお心に触れるとき、逆に私たちの心が知らされます。

思い返すと、私は子どものころは身長と容姿に、大人になってからは能力や仕事について強い劣等感を抱いていました。そして自分の理想像を作り上げ、理想通りになれない自分を認められず、自分をいじめ、思い悩み、暗い日々を送っていました。まさに私の心は人と「くらべ」、理想的な自分になろうと「あせり」、なれずにどうせ自分なんて、と自分を「あきらめて」いたのです。

「くらべなくていい、あせらなくていい、あきらめなくていいんですよ。容姿や能力がどうであろうが、そのままのあなたひとりの存在が尊いのです。同じように他の人々も、みな等しく尊いのです。だから自分を、すべての人々を、生きとし生けるものを大切にしてください」これが仏さまの願いです。

それなのに、他ならぬ私自身の心が仏さまにそむき、自分で苦しみを生み出しているのです。驚くと同時に、そんな私だからこそたすけようと、願いをかけてくださっている仏さまがおられた。このことに手が合わさります。

(教務所 鷲尾祐恵)


「仏法とは 隣の人と本当に出遇っていくことです」 竹中 智秀

けんか  あらいたかゆき 6歳

おとうさんとおかあさんがけんかをしました

おとうさんはあかあさんがすきやのに

おかあさんもおとうさんがすきやのに

それやのにけんかをします

 

「一年一組せんせいあのね」鹿島和夫著

お互い傷つけあうことがやめられない生き方を自害害彼(真宗聖典P27)といいます。悲しいですね。

 

出石小学校一年 田中ひろみ

お父さんとお母さんがけんかした

最初、お母さんがあやまった

そしたらお父さんもあやまった

いい親たちでよかった

そういったらお母さんがなきだした

 

「生命の見える時」松本梶丸著

他を攻め傷つけあう生き方から、他を認め出遇いつづけていく生き方

 

えらばず きらわず みすてず 仏さまのこころ仏法に出遇わなければ大変なことになりますね。

(9組 源大寿)


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