「相手の人間性を無視すれば 自らも人間でなくなっていく」 和田 稠
「なんのために 生まれて なにをして 生きるのか」 やなせたかし
この言葉はやなせたかし氏自身が人生のテーマソングと言った「アンパンマンのマーチ」の歌詞の文言です。
「ぼくはみんなが楽しんで喜んでくれるのが一番嬉しい。でも、すぐにそれが分かったわけではないんだよね。」(やなせたかし著『わたしが正義について語るなら』より)
漫画家、詩人、絵本作家、ミュージカルの構成作家と紆余曲折を経て、やなせたかし氏は自身の望む生き方が具体化されていったようです。
自分の望むことは何なのか、自分は何をしたいか。
仏教の教えは自分のことを知る教えです。
無視することが出来ない、隠しようがない本当の私の心や姿に出会う。これを回心(えしん)と仏教では言います。それを知る事で、それまでの自分には戻れないというくらいの事なのです。
やなせたかし氏は、自分のことを「すぐにそれが分かったわけではないんだよね」としています。
一番近くにありつつも、一番知り難い存在が私自身なのかもしれません。
(大伴慎介)
「問う者から、問われる者への転換」 武田定光
浄土真宗は「なむあみだぶつ」に生きる教えです。
その教えは、「あみだ」(あらゆるいのちあるものを例外なく全て、順序なく一斉に救う)という願いを存在そのものとした「ぶつ」(仏さま)を「なむ」(その願いを私の人生においても大切に)していきたいという姿(念仏)と言葉(なむあみだぶつ)で表されます。
そういう「なむあみだぶつ」という教えからこの法語を味わってみると、「教えにこれから出あう人」と、「すでに教えに出あった人」の姿を伝えた言葉として聞こえてきます。
つまりそういう教えに出あうということは転換が起こるということです。
私の思いを実現させるという生き方から、私に問いかけられている(願われている)ことに応える生き方の転換。
それは具体的にはどんなことでしょうか。
これまでの悲喜交々の人生の中で思い当たる瞬間があったのではないでしょうか。
そのことを自分の言葉で語ってみませんか。
教えに聞きながらそれぞれの人生の中で訪ねてみませんか。
私の価値観で生きるということでもなく、教えの中に逃げ込むということでもありません。現実と教えの間に身を置くという言葉を先達は言われました。それを聞法と言います。
それは教えに出あった人の責任であり、人生をかけてのあなたのお仕事です。
(見義智証)
「大悲倦きことなく 常に我を照らしたまう」 正信偈
「私」は阿弥陀様の光に照らされている。いつでも、どこにいても、照らされている。自分のことを悪人とはさらさら思っていない極重の悪人である「私」は、阿弥陀様の光の中にいる。その光は、すべての者を選ばず、嫌わず、見捨てずにおさめ取ってくださる光である。しかし、「私」は煩悩に眼(まなこ)が遮られ、その光が見えていない。その光に気付いていない。その有難さが分かっていない。
でも、阿弥陀様はずっと光を放ってくださっている。「私」にはたらきかけてくださっている。怠ることなく、あきらめることなく、選ぶことなく、嫌うことなく、見捨てることなく、ずっと「私」を照らしてくださっている。どうにもこうにもならない「私」を悲しんでくださり、なんとかしようと手を差し伸べてくださっている。
阿弥陀様の光に背を向け続ける「私」に、阿弥陀様はだまって光を放ち続けてくださっている。
(華藏閣行文)
「人間は偉いものではない 尊いものです」 安田理深
2013年3月12日の北日本新聞の記事です。
高岡市木津の中島基樹さん(当時31歳)は2002年1月にサッカーの練習中に心臓発作を起こし、一命は取留めたが、医師からの診断は低酸素脳症。重度意識障害者となり寝たきり状態となった。
それから家族の懸命な在宅介護が始まった。その彼が言葉を取り戻していく。国学院大学の柴田保之教授との出会いがきっかけであった。筋肉のわずかな動きを拾う特殊な器具を取り付け彼に50音を読み上げる音声を聞かせ、反応する文字をつなぎ合わせ一つの文章にする作業である。11年もの間、閉ざされた彼の言葉が一気にあふれだした。
「つらかった でも ぜつぼうではなかった いつかだれかがきづいてくれるとしんじていた」
「ぼくのことわかってくれて ありがとう」
「ぼくのようなじょうたいでも いきるいみがある いのちのたいせつさを うったえることが ぼくのしめいです」
この新聞の記事がきっかけで同じ境遇にある人々に大きな希望と光を投げかけました。
彼は人間として生きる意味を問い いのちの尊さに目覚め 使命を担っていかれました。いのちがキラキラ輝いて見えます。
(源大寿)
「私は間違いない 争いの根はここにある」 澤面宣了
私は毎日、ニュースやインターネットのSNSをよく見ています。そこでは、他者に猛烈な批判を浴びせたり、自分の主張を相手に押し付ける人の姿を頻繁に見ます。はじめは理論的理性的に会話をしていたものが、感情的になり相手を罵倒して終わってしまうことさえあります。
そこにあるのは「私の主張は間違っているはずがない、なのになぜ相手は聞き入れないのか。この人はダメだ」という意識ではないでしょうか。私も毎日の家族との生活の中で、そんなやり取りをしてしまうことがあります。他人ごとではありません。
人は必ず間違いを犯すものですし、人生の中では常に他人にお世話になり、迷惑をかけ、傷つけながらしか生きられないという事実があります。私たちが意識しようがしまいが、仏さまはその事実を常に照らし出し、私たちに教えてくださっています。「私はどうなのか」と自分のありさまを観察することのないまま他人を批判していくことは、人間の関係を損なっていく争いの根なのだと受けとめています。
(鷲尾祐恵)