富山別院とは

富山別院と廃仏毀釈

明治維新という日本が大変革された時代に、廃仏毀釈の嵐が富山藩を吹き荒れました。明治3年、藩内の仏教諸宗に対して一宗に一カ寺しか存続を認めない「合寺令」が断行されたのです。権力による激烈な仏教弾圧によって、藩内の200以上の真宗寺院が取り壊されました。

念仏の灯火が消されそうになった地に、門徒たちは聞法の場を求めました。明治19年、富山城の外堀を埋め立てて説教所の敷地にしようと「砂持奉仕」が実施されました。延べ7000人以上の人々が神通川から土砂を運び、埋め立てて、現在の総曲輪に寺地を築きました。これが富山別院の始まりです。

その後、明治32年の富山大火、昭和20年の富山大空襲と、二度にわたって別院は焼失しています。しかし、その度に富山別院は、焼け跡から門徒衆のエネルギーによって復興され、現在、別院前に「別院創立記念碑」が安置されています。大空襲の焼夷弾によって前半部分は破壊されていますが、残った碑文から明治の廃仏毀釈を逆縁とし、門徒が「振起」(ふるいたつ)ことによって別院を設立したことが読み取れます。

日本近代史の荒波の中で、弾圧の中から生まれ、廃墟の中から蘇ってきた富山別院は、民衆による仏教復興のシンボルともいえましょう。先達から託されたこの別院を拠点として、「振起」を未来の衆生へと引き継いでいくために、今なにができるのか、なにをすべきなのか。私たちの取り組みが問われています。

「振起」とは

富山東別院の正面に、別院創立記念碑が設置されている。昭和20年の富山空襲により一部破損しているが、明治初頭の廃仏毀釈と富山東別院創立を物語るモニュメントとして今日まで伝えられてきている。破損のため全文は読み取れないが、IMGP1716 2-thumb-250x373-64

明治三年に富山藩の合寺の旨の布れにより、教[不明]動揺させられた。一令で悉く寺院を毀(こわ)した。大政維新の国是、廃藩置県の移り変わり、その間信徒が再び振い起(た)ち。振い起(た)った後、明後年の明治十三年より富山城内の総曲輪城址に開き始めた。春三月十五日に建設を始める。これを本願寺と云う。

と刻まれているのが、かろうじて読み取れる。

2010年発行の御遠忌記念出版「振起」の書名は、碑文中の門信徒による「振起」からいただいたものだが、それは偏に、富山東別院が地域の根本道場として今後歩んでほしいという願いからである。

富山別院のあゆみ

1870(明治 3)年 閏10月27日、合寺令発布
1876(明治 9)年 3月9日、合寺令全部解除
1879(明治12)年 本願寺二十一世厳如上人富山入
11月、本派の説教所が設置される
1880(明治13)年 大谷派の説教所が設置される
1884(明治17)年 4月、大谷派説教所が別院に引直
10月23日、宗祖等身御影等下附
1886(明治19)年 農閑期を利用して神通川から土砂を運び、
お堀を埋めたてる東西門徒による「砂持奉仕」はじまる
1887(明治20)年 1月、東西両本山から別院設立許可の通達あり
1888(明治21)年 11月、両別院の仮本堂完成
1899(明治32)年 8月、富山大火で焼失
12月、仮本堂再建、その後庫裡・客殿・表門が建てられる
1925(大正14)年 玉日講発足
1933(昭和 8)年 玉日会館が建設
1945(昭和20)年 8月、第2次世界大戦富山空襲で焼失
1946(昭和21)年 富山別院復興事務所設立、仮本堂建つ
1950(昭和25)年 5月6日、第1回復興常任委員会
6月、着工(請負人泊町大西組・棟梁長沢酒井安一)
8月、復興御消息披露巡回はじまる
1952(昭和27)年 3月29日、御遷仏法要
1954(昭和29)年 6月、宮殿並びに梵鐘落慶法要・蓮如上人四五〇回忌法要
厳如上人五十回忌・現如上人三十三回忌法要営まれる
1963(昭和38)年 宗祖七百回忌法要
1966(昭和41)年 八十周年記念法要
1980(昭和55)年 10月5日、百周年記念大法要
1986(昭和61)年 富山東別院会館(教区教化センター)竣工
2008(平成20)年 蓮如上人五百回御遠忌法要並びに
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌お待ち受け法要厳修